男の約束


少しずつ眠っていた意識が甦る。そしてジワジワと夏の暑さも迫ってきて
家のおんぼろ扇風機が恋しい。エアコンの類はいまだ慣れない。
いや、こんなにも暑いのは後ろの人のせいだ。

「今、何時ですか」
「…9時18分だよ」
「うあー…。寝すぎた。起きます」

本当はまだ少し眠いし暑いから外には出なくないけれど
今日は約束がある。亜美は起き上がろうと体を動かす。が。
力強い手にガッチリと抱きしめられて動けない。

「何も聞いてないよ」
「言ったって忘れるくせに」
「で?」

仕方なく彼の胸に収まる。このクソ暑いのにまた暑い事を。
文句を言っても始まらない。気が済むまでこのままだ。

「今日は亜矢と正志を市民プールへ連れて行くんです」
「君も水着を着るの」
「もちろん。クソ暑いのに見てるだけなんてアホみたいでしょ」
「私も行くよ」
「いいですよ。暑いの嫌いでしょ」
「私に耐えろというの?…君が他の男に見られてるのに」

こうなるだろうと思ったから言いたくなかった。亜矢と正志の名を出せば
さらっと流してくれるかもなんて考えたのが甘かった。
市民プールにTシャツはNG。だから隠さず水着全開で行くわけで。
それが普通なのだが。何をどう勘違いしているのかそれが嫌らしい。

「市民プールに来るような善良な市民を疑うんですか」
「そうと知っていれば昨日のうちに…いや、…今からでも」
「体に痕つけたらそれが消えるまで家に帰るからな」
「しょうがないな。準備をしよう。予定では何時から?」
「10時です。だから手をどけて。大人しくここで待っ」
「水着は地味なものを選ぶようにね。顔を洗ってくる」
「話を聞け」

軽く亜美の頬にキスをして雅臣は先にベッドを出る。
ついて来る気満々。亜美に拒否権はなさそうだ。
この暑いのに喧嘩するのも嫌だ。仕方なく自分もベッドを出た。



「姉ちゃん遅いぞー!」
「ごめんね正志。亜矢は?」
「中。呼んでくる」

少し遅れて我が家に到着。玄関では暇そうに正志が待っていた。もう中学生。
成長期で背がぐんぐん伸び始めて少しは兄らしくなった…らいいのに。
相変わらず食い気優先で食費が大変らしいと亜矢が愚痴っていた。

「あ。こんにちはおじちゃん」
「やったー!車で行けるぞ!クーラークーラー!」
「正志!まずは挨拶!」
「はい!…こ、んにちはおじちゃん」

でもって亜矢には今もまるっきり頭が上がらないらしい。
お行儀よく叔父さんの車に乗り込んでクーラーの効いた涼しい車内に感動。
我が家では相変わらずあのおんぼろ扇風機が現役だから。

「おじちゃんも泳ぐの?」
「叔父さんは監視役」
「監視?」
「そう。君たちが何事も無く楽しんでるか」

このうそつきめ。
助手席に座っていた亜美はチラっと運転中の叔父さんを睨んだが
気づいてないのか或いは分かっていて無視しているのか。
雅臣は前を向いたまま視線が合う事はなかった。

「姉ちゃん」
「ん?なに?ウンコ?」
「俺の顔見てすぐウンコって言うなよ。…あのさ」

亜矢が車から見える景色を眺めている間。
コソコソと姉に話しかける正志。聞かれないようにか小声。
てっきりトイレかと思った亜美だが弟はちょっと真剣な顔。

「なに」
「…今度亜矢に水着買って」
「また何か言われたの」
「俺はパンツだからいいけどさ。あいつ、ずっと同じ奴だから」

親が買おうと言っても姉のお古でいいと言う。
新しいもっと可愛いらしいのがいいはずなのに。

「わかった」

亜美からプレゼントしたら亜矢も受け取るはずだと正志は思っている。
姉のようになりたいと思っているから。自分が言うよりもきっと。
亜美の言葉に安心した顔をする正志。

「なに?」

そんな気配に気づいた亜矢。不思議そうに此方を見る。

「何でもない」
「正志がウンコだってさ」
「もー!だからトウモロコシ食べちゃ駄目っていったのに!」
「ごめん!」

車内はまた何時ものように元気があって騒がしい。
そして、予定より少し遅れたが無事にプールに到着した。
天気もよくて暑いから同じようにプールに来た人が結構居る。


更衣室に入る雅臣と正志。が、すぐに正志はトイレに向かった。
着替えは既にしており服を脱ぐだけでいい。あいているロッカーを見つけて
荷物を入れる雅臣。自分は泳がないから着替えは殆どしない。

「なあ、おじさん」
「ん?」
「亜矢はしっかりしてるからいいけどさ。姉ちゃんってちょっと抜けてるだろ」
「え?…そう、かな」

戻ってきたと思ったら唐突にそんな事を言い出す正志。

「父ちゃんが言ってるんだ。学校で変な男に引っかかってないかって」

中学生になり色々と他人の事も考えるようになったらしい正志。
主に母親や亜矢の事を考えているのかと思いきや、
意外にも姉の事も心配していたらしい。それはいい事だと思う。

「大丈夫。お姉さんはそんな騙されたりしないよ」

雅臣はそう言って笑みを向ける。

「おじちゃんを男と見込んでお願いがあるんだけど」
「何だい」
「もし姉ちゃんに変な奴がくっ付いてたら追い払ってくれ!」
「へん…な…やつ」

言葉に詰まる叔父さんを他所にいたって真剣な様子の正志。

「悪い虫って奴だよ。大人はそういうんだろ?」

たぶん日ごろ亜美の父がそう言っているのを鵜呑みにしていると思われる。
単純な思考回路の正志らしいけれど。自分は悪い虫じゃないはずなのに、
何となく胸がチクっとしたのは何故だ。それでも平静を装う雅臣。

「そうだね、悪い虫は排除しないとね」
「まあ、おじちゃんが駄目なら俺が悪い虫追い払うけどさ」
「気持ちは分かるけど、あまり物騒な事はしないほうがいいよ?」
「大丈夫。俺の必殺金タマつぶしをお見舞いしてやる!」
「……」

あれ?何でだろう股間がキュンとする。

「俺だって亜矢や姉ちゃんを守るんだ。…母ちゃんも、守るんだ」
「君は男の子だしね。さ、行こう。2人待ってるよ」
「おう!あ。今のは内緒だからな!男と男の約束だ!」
「わかった」

恥かしそうに言うと正志は先にプールへ向かった。
雅臣はゆっくりとその後を追う。途中で亜矢と合流し
プールで走るんじゃないと怒られて一緒に歩いていた。


「おじさん」
「亜美。泳がないの?」

呼ばれて振り返ると水着ではなくて短パンに着替えただけの亜美。
てっきり泳ぐものとばかり思っていた雅臣は驚いた。

「後が面倒そうだから。本読もうと思って」
「そう」
「どうしたんですか?何か顔色が悪いような」
「いや。…うん、座ろうか」
「はい」

男の約束だ。何も話せない。
泳ぎ始めた亜矢と正志を他所に椅子に座り本を読む亜美。
その隣に座ってさりげなくそんな彼女を見つめる。

「私も本を持ってくるべきだったな」
「あの子たちが何事も無く楽しんでるかの監視役なんでしょ?」
「君の事も含まれるんだけど」
「私はこの通り楽しく本を読んでますから」
「……」
「何ですか人の顔ジロジロ見て」
「ほら、君可愛いから」
「そう言わないとボッコボコですもんね」
「うん。そう。あ、ちが…痛っ」

容赦なく拳骨が腹にめり込んだ。

「無理に言わせてすいませんでしたね」
「そう思うならもっと優しく接して欲しい」
「え?もう1発欲しいって?」
「…これなら大丈夫かな」
「何がですか」
「君の拳を受け止められるのは私くらいだということさ」
「おじさんか正志くらいにしか拳骨なんてしませんけどね」

さりげなく手を繋いで見詰め合う。周囲は子どもたちの声でいっぱい。
でも、それもいつの間にか聞こえなくて。そのままキスを。

「…ここは視線が多いね」

しようと思ったが目の前を子どもが歩いていって。やめた。

「ただでさえおっさんは目立ちますしね」
「どうせ私はおっさんだよ」
「けどこんな若くて可愛い彼女が居るんですからいいじゃないですか」
「……うぅん、まぁ、ね」
「その微妙な顔を何でやめられないんですか殴られるのに」
「ごめん。私はどうも素直な人間なよ…あ、亜矢ちゃんたちの様子を見て来るね」

次の手が来る前にそそくさと逃げ出すおじさん。
こうなると分かっているのだから黙っていればいいのに。それが出来ないほど
自分は可愛くないという事だろうか。亜美はちょっとショック。
といっても今に始まったことではないけれど。今更ながらショック。

「おじちゃん泳ぐの?」
「いや。様子を見にね。正志君は?」
「あっちでおよいでる」
「亜矢ちゃんは泳がないの?」
「…あんまり泳いだらお腹すくし」

借りた浮き輪でプカプカ浮いている亜矢。
正志は後先何も考えずひたすら泳いでいる。

「じゃあ昼は亜矢ちゃんの好きなものにしようか」
「お母さんがそーめんつくってくれてるし」
「連絡しておくよ。そーめんは夜にしてくださいって」
「いいのかなぁ」
「夏休みだし、おじさんに甘えるのも悪くないんじゃないかな」
「じゃあ。泳ぐ…」
「亜矢!亜矢!ここすごい深いぞ!足ギリギリだ!」
「無茶はしないようにね」
「大丈夫。亜矢がキッツーく言っとく!」

そう言ってバタバタ足を動かし騒いでいる正志の下へ。
言ったとおりキツーく怒られてへこんでいる正志だったが、
お昼は叔父さんがおごってくれると聞いてまた元気になった。
実に分かりやすい少年だ。

「げ!教授」
「あれ?殿山君、何してるのこんな所で」
「あ。いや。夏なんで、…監視員のアルバイトを」
「へえ」

亜美の元へ戻ってもいいだろうかと歩き出したら見覚えある姿。
彼もまた雅臣を見て酷く驚いた顔をした。たしかに自分でも
市民プールなんて亜美の事が無ければ絶対来ない場所だと思う。

「教授こそ何を。まさか泳ぎに?」
「いや。姪と甥がね。付き添いだよ」
「姪に甥ですか。…教授も人間らしいところがあったんですねぇ」
「そうなんだ。自分でも少し驚いてるけどね。アルバイト頑張ってね」
「はい」

助手だけではやっていけないのだろう。とやかく言うつもりはない。
軽く会釈をしてその場を去る。殿山はさっさと歩いていった。
出来るだけ教授から見えない場所へ移動する為に。

「お知りあいですか」

席につくと亜美が見ていたようで興味ありげに聞いてくる。

「ん?まあ大学のね」
「へえ。…かっこいいかも」
「君も学ばないね。私にそんな事を言ったらどうなるか分かるだろうに」
「平然と怖いことを言わないでくださいよ。…まあ、確かにそうでしたね」

他の男の話をするなんて馬鹿だった。
叔父さんは不愉快度数マックスな顔をして此方を見ている。
こうなると機嫌を直すには体のお付き合いしなければならない。

「あえて私を煽っているのなら受けて立つ」
「ンなアホな事する訳ないでしょ。…亜矢たちも居るしここは穏便に」
「そうはいかないよ。私には君を守る使命があるからね」

正志にも頼まれた悪い虫を排除する義務。
亜美は苦々しい顔をするけれど。此方は笑顔。

「私をどーしよーってんですか」
「何てことはないさ。朝の続きをするだけで」
「……シャワー浴びさせてくださいね」

その後、昼前まで泳いだ2人。眺める亜美と雅臣。
想像したとおり正志はあがるなり盛大に腹を減らして。カレーがいいとか
ラーメンがいいとか叔父さんにねだって亜矢に怒られた。でも空腹。

「すいません。育ち盛りなもんで」
「ごちそうさまでしたおじちゃん!ほら!正志も!」
「ごちそーさまー。またから揚げ食べたいなぁ」
「正志」
「ごめんなさい!」

家まで送ると外で母が出迎えてスイカをくれた。
無理しなくていいのにと思いながらここは笑顔で受け取る。
2人きりになった車内は何だか寂しい。
さっきまで弟を怒ったり妹と笑いあったりしていたのに。

「子どもは2人以上欲しいな」
「君みたいに元気な子とか…」
「暴力的の間違いじゃないですか?」
「睨まないで」

寂しいついでに思い出す。双子がアメリカに帰って久しい。
元気にしているだろうか。新しい父親と上手くいってるといいけど。
あいつらが居た頃も騒がしくて何かと亜美は苦労したけど、
居なくなったら寂しくて。部屋も無駄に多いから広く感じる。

「子どももいいもんですよ?煩いし騒がしいしすぐ物が壊れるけど」
「それは私に求めてるの?」
「まあねえ。どんだけ優秀な遺伝子でもおじさんの期限が切れたらなぁ」
「……君の遺伝子が強かったら意味が無いんじゃないのかな」
「はあ?」
「痛い痛い痛い!膝を抓らないで!」

今はまだ駄目だけど、何時かは子どもたちと楽しい家庭を。
何て柄にも無く考えて笑いながら思いっきり抓ってやった。
確かに雅臣ほど優秀な遺伝子じゃないだろうが。

「私に見合った遺伝子を探しますから」
「……」
「…あ。あの、今のは冗談ですからね。そんな真に受けないで」
「君を他の男に取られるくらいならいっそ今のうちに」
「え!?いや、ちょっと今はまだそーいうの駄目なんじゃないかな」
「責任は私が取る」

赤信号で止まった車。やたらマジな顔して此方を見つめる叔父さん。
冗談半分で言った子どもの話し。なのにそんな真に受けて。
どうしようこのまま避妊ナシで妊娠とかしたら。学校とか。この先の事とか。
いやそのまえに父親だ。結婚できるのか?不味いパニックになりそう。

「あ、あの、その、あの」
「なんてね」
「雅臣さん」
「私はまだ期限切れだとは思っていないし、君の将来を見守っていたい。
だから無謀な事はしないよ。……時が、…来るまでは、ね」
「はい」
「2人以上は構わないけど全員暴力的だったらお手上げだろうなぁ」
「そうですね。ボコボコですね。総攻撃でボコボコ」
「そんな満面の笑みを浮かべないでくれるかい。…本当にありそうで恐ろしいよ」


女の意地に続く


2010/07/13

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