告白の行方


「若、あの」
「何だよ」
「貴也さんがお呼びで」
「わかった」
「……」
「何だよ何か文句あんのかテメエ」
「いえ別に」

ピリピリとした空気漂う部屋。誰もがそこへ行くことを拒み
仕方なくというのも変だが皆にお前が行けと指差され小田が来た。
入るなり若に睨まれて冷や汗をかく。
行き成り攻撃を受けるという事はないようで静かに2人部屋を出る。

「兄さん、あの」
「余計な事は言わなくていい、要件だけ話せ」
「そ、そうだね」

剣呑な雰囲気の遥に気まずそうな貴也。その隣に居た継母も平静を装い
煙草を吸いながらも目はどこか泳いでいる。なんとも冷え切った室内。
さっきまで一緒だった小田は早々と一礼をしてその場から逃げた。
こんな恐ろしい部屋に長居は無用だ。


「ね、ねえ。…良かったら教えてくれない?」
「何をですか」

その頃別室では春花の様子を伺いつつ遅い夕飯を頂く猪田と幸。
他の者が居ては彼女も怖がったり気を使うだろうと特別に3人だけにしてもらった。
何処となく機嫌が悪そうな彼女。理由はもうこの屋敷の者は皆知っている。

「あのさ…若のどこが駄目だったの?」
「何処って。失礼じゃないですか、こんな時に」
「でもほら、ねえ?勢いって大事じゃない?」
「……」

黙ってしまって黙々とご飯を食べる春花。ため息の猪田。
幸はその間で無関心そうに自分のペースで食事を続けた。

「兄貴」
「ああ、小田ちゃんいらっしゃい」
「こんばんは」
「あ、ど、どうも」

そこへ遥を案内して戻ってきた小田が来て猪田の隣に座った。
春花を見てちょっと落ち着かない様子。

「ねえ、小田ちゃん。もしかして貴方」
「え?な、何ですか」
「当て馬が本命になっちゃったとかいう事は」
「は?……ち、違いますよ?自分は何もしてないですから」

疑いの眼差しを向ける兄貴に慌てて首を振る小田。
そんな中でも黙々と食べ続ける春花をチラっとみてすぐ視線を戻す。

「美味しいですね」
「うん」
「こう美味しいといっぱい食べちゃって。…太るかな」

彼らの視線を無視するように幸と料理を食べ続ける春花。
まるでやけ食いのようなペースだと自分でも思う。ちょっと胃が苦しい。
やっと箸を置いてご馳走様をするとさっきまで自分が居た部屋に戻る。
幸も同じように箸を置いてついてきた。猪田と小田はその場に残った。

「何がいけなかったのかしら」
「そんな不味い言い方だったんですか?」
「ストレートに言ったわよ。若にしては上出来、だったんだけどなあ」

はあ、とため息をして先ほどの様子を振り返る。何とか春花に気持ちを伝え
あとは答えを待つだけで、覗いていた皆は当然YESだと思った。
何時も傍に居た猪田はやっとこれで2人素直になれると涙ぐんでいたのに。

『は?何ですかそれ』

彼女の返事はとても淡白なもので、皆が望んだYESでもなかった。
その場はそれで終わってしまいはっきりとした答えは出さなかったけれど、
とりあえず喜んでもいないし微笑んでもいないし。どちらかというとNO寄り。
遥はショックだったようでそのまま自室に引きこもった。彼女もあの有様。


「食べ過ぎた…」

満腹で苦しくて部屋に戻ると壁にもたれて深呼吸。幸は特に辛そうな様子はなく。
春花の隣に座ってジッとしていて、大丈夫?と一応聞いてくれた。

「……」
「最悪ですよね。もう。社長、なに考えてるんだか」
「……」
「戻り辛くなるじゃないですか…」

沈黙する部屋。怖い人たちから助けられてせっかく自由になれたのに。
また新たな問題が出てきてため息が出る。ビルに戻ることを望んでいたのに。
今はあまり戻りたいとは思えなくて。どうしたものかと体育座りのままボーっとする。

「姉ちゃん」
「はい」
「…殿サマ。嫌い?」
「……嫌い、…じゃないです」
「何で。…怒る」

幸の問いに返す言葉が見つからない。
自分でもどうしてこんなに怒っているのか本当は分かっていないような気がする。
社長からの告白。あれは本気だったのか、それとも自分をからかっているのか。
今まで散々瑞香との思い出を見せ付けられて傷ついてきたものは何だったのか。

「何で…でしょうね」
「……」

自分の気持ちにはだいぶ前から気づいていた。
だからあれが本当に彼からの愛の告白だとしたら、嬉しいはずなのに。
いろんなことが一気に起こって春花にはそれをどう処理すべきか分からない。
だから不器用な脳がストップをかけたんじゃないかと勝手に思う事にした。
何て、どう幸に説明すべきか分からないからここは笑ってごまかす。
微妙な空気が流れている中猪田が布団を持って部屋に入ってきた。

「今日はここに泊まっていきなさいって。布団敷くからその間にお風呂はいってらっしゃいな」
「え。で、でも」
「幸ちゃんは隣で寝るの」
「……」
「あら。嫌なの?でも駄目よいらっしゃい」

春花はあまり長居はしたくないけれど、風呂場の位置を教えると着々と布団を敷く猪田。
ご飯もご馳走になったし、ここで強引に帰るというのも悪いような。言い出しにくいような。
春花は流されるままに立ち上がり恐る恐る風呂場へ向かう。
パジャマになるようなものは持ってきていない。今日はこのまま寝るのだろうか。

「これをお使い」
「あ」
「若い子向きじゃないけど。そのままで寝るには忍びない」

長い廊下を緊張しながら歩いていたら曲がり角の影からにゅっと人影。
慌てて構えたら出てきたのは姐さん。手には服らしき布が見える。

「ありがとうございます」
「あんた思ったよりも賢いんだね」
「え?」
「あのバカはほっといていいよ、…何れまた、自分にあった女を見つけるさ」
「……」

それを受け取ると姐さんは去り際にぼそっと呟いた。
バカ、というのは社長の事だろうと察して。春花は何もいえなかった。
一礼して再び風呂場へと向かう。それにしても大きな家だ。何処までも廊下。
このままたどり着かないんじゃないかと思えてくるくらい。

「そっちは倉庫ですよ」
「あっす、すいません」
「いえ。ここは何処も似たようなつくりですからね、迷うのは仕方ない」

ここだろうかと手を伸ばしたら後ろから声。振り返ったら今度は貴也。
何処かへ行く途中だったのだろうか。もはやここがどのあたりか分からない。

「じゃあ、こっち、ですか」
「あっちです」
「すいません」
「あの」
「はい」
「……、…いえ。何でもないです。失礼します」

何か言いたげな貴也だったが結局何も言わず去っていった。
それを不思議そうな顔をして見つつ、教えてもらった風呂場へと向かう春花。
戸を開けると脱衣所がまず広い。ここは何処の旅館かと思うくらい。


「……」

その頃。あれからずっと部屋にこもっていた遥。だが何を思ったのか立ち上がり
廊下に出るとそこに座り込みよく手入れされた花壇を眺め始めた。主が亡くなった今も
手入れは欠かさずされており季節がくれば可愛らしい花々が咲き乱れる。沈丁花もそう。
もう終わってしまったが少し前ならそのいい香りを庭一杯に広げていた。

「殿サマ」
「……何だ」

そこへ幸。ずっと春花にべったりだと思っていたのに。
珍しい事もあるもんだと思いつつ振り替える。

「殿サマ。傷心」
「何処でそんな小ざかしい言葉を。…猪だな」

幸はグサっとくる一言を言うと隣に座った。

「姉ちゃん。殿サマ。…嫌い、じゃない」
「そうか。そりゃ嬉しいね」
「仲。よくない?」
「さあな。…少しはいいかと思ったが、とんだ気のせいだった」
「……」
「いい笑いもんだ。ま、これで暫くはここに戻らなくて済むけどな」
「このまま、いい?」
「いいも悪いも。…どーしようもねぇだろ」

皆がこっそりと後ろで見ている中盛大に玉砕してしまったのだから。
明確なNOは突きつけられなかったが、あれは誰がどうみてもYESではない。
遥は視線を幸から花壇に戻しまたボーっと眺め始めた。

「姉ちゃん。一緒。帰らない?」
「俺の所為だって言いたいのか?…悪かったよ」
「すむ世界…違う、から?」
「……」
「やっぱり。……綺麗。…なれない。から」

幸はただジッと地面を見つめている。その表情は読み取れない。

「お前はもうあの頃みたいに無機質でも鋭くもねぇし、自制も出来る」
「……」
「俺を殺しに来た時とは全くの別人だ。その変化を自分でもわかってんだろ。それでいいじゃねえか」
「…でも」
「姉ちゃんはあれだ。そう。……やっぱ俺の所為だな」

苦笑いしてため息。勢いに任せた結果の大恥。
何より彼女がビルに戻り辛くなった。帰りを待っていた幸にはあまりにも酷な話だ。
遥はクシャっと頭を掻いて立ち上がる。ここでウダウダしていても仕方がない。

「あ」
「おっ…な、なんだ、居たのか」
「はい。もう出ましたけど」

風呂にでも入ろうと向かったら丁度出てきた春花。
気まずいままに視線があってしまったからとりあえず会話する。

「なんだ。それ。婆の浴衣か?」
「貸して下さったんです」
「そうか」
「…下着まで」
「あ?」
「いえ。じゃあ、お先に」
「ああ」

浴衣という何時もと違う格好な上に湯上り。少々色っぽい姿に映ったのだが。
何時もならからかってやるのにそれもできず。さっさと風呂場に入った。
何か言えばよかった。けど、何を言うのだろう。

「姉ちゃん」
「幸さん」
「……湯上り」
「はい。ここのお風呂凄いですよ。もう温泉みたい」

入れ違いになりドキっとしたのは春花も同じ。同じ家に居るのだから会うのは当然なのだが。
胸に手を当てて、ビックリしたなと思いつつ来た道を辿り部屋に戻ろうとしたら廊下に幸。
もしかして彼も一緒に風呂に入るのだろうか。あの広さなら余裕だろうし。

「殿サマ。傷心。…ハート…ブレイク」
「は、はーとぶれいく。またやけに古い」
「もう少し。…考えて」
「幸さん」

もしかして彼は社長との事を勧めている?
最初は何を言いたいのか分からなかったけれど、どうもそんな気がする。
何時もそのテの話題には興味なさそうにしていたのに。
けれど、本当はちゃんと聞いていて彼なりに理解していたのかもしれない。

「一緒。帰る」
「はい。帰りましょう」
「うん」

春花の返事にやっと笑みを見せる幸。

「あの、すみません。お嬢さんの携帯が」
「私の携帯…あ!そういえば!」

そこへ割ってはいる小田。手には見覚えある鞄。
監禁されていた時は何も手に持っていなかったから。
恐らくは彼らが取り戻してくれたのだろう。

「さっきまで鳴ってたもんで」
「あ!学校からかも!」

慌てて鞄を漁り携帯をとる。着信履歴はビッシリ。

『よ、よかったーーーーー!』
「あの、すみませんこんな時間に」
『そんなの気にしないで。俺、…ほんと、…やべ泣けてきた』
「馬宮さん」

相手はほぼ馬宮。時間を考えてやめようかとも思ったがさっきもかかってきた事だし、
まだ起きてはいるようだから。リダイヤルすると何よりまず彼の叫び声。驚いて携帯を耳から離す。
相手が誰か分かった幸は不機嫌そうな顔。小田は気を利かせてその場を去った。

『今どこ?警察に保護された?それとも自分で…?』
「え。っと。あの。…知り合いのお家に、なんとか逃げてこれました」
『そっか。良かった。ごめんね俺何もできなくて』
「いえ。こちらこそ、怖い思いをさせてしまってごめんなさい」
『俺、春花さんを信じてるから。母ちゃんにも全部話したけど同じ気持ちだって。
だから気にしないで明日からもまた店に来てくれよな。待ってるから』
「馬宮さん」
『ほら。お互い名前で呼び合うって言ったばっかりだよ』
「……翔さん」

この世にこんなにも純粋で優しい人が居るなんて。ちょっと目頭が潤む。
ありがとうございますと言ってここは電話を切った。明日また、といってももうその日なのだが。
ゆっくり休んで落ち着いてから馬宮と話をしよう。それからの事はまた考えるとして。

「……」
「すいません」

何か言いたそうにしている幸。でも言葉にはしない。出来ない。

「……」
「幸さんお風呂はいった?」
「まだ」
「社長ももう出てると思いますから入ってきたらどうですか?
今日…じゃない、昨日は色々ありましたし。疲れたでしょ?」
「入る」
「あの。…ありがとう幸さん。これからも、仲良くしてくださいね」
「……姉ちゃん」
「お休みなさい」

元気の無い幸だったが春花の精一杯の笑顔を見て少しだけ微笑み返した。
それぞれ別の道を歩き幸は風呂へ春花は布団の敷かれた部屋へと戻る。
猪田の姿は無い。鍵のないいたってシンプルな和室。ちょっと不安だけど。
布団に入ってしまうと今までの疲れがドッと押し寄せてきたようで。
気にしている暇もないほどあっという間に眠りに付いた。



「おはよう兄さん」
「ああ」
「彼らとの交渉は僕と父さんでやれそうだ」
「そうしてくれ。俺にはそういう回りくどいことは出来ない」

翌朝。何となく目が覚めてまだ誰も起きてないらしい静かな廊下を歩いていた。
そこへ待っていたかのように貴也がいて。驚いたもののとりあえず挨拶。事情は昨日全て聞いた。
自分にはもう関係ないと思いながらしっかり渦中に居た事に苛立ちのような虚しさのような。複雑な思い。

「彼女はどうする」
「別に。本人の好きにさせるさ、ただ、…せっかく見つけた仕事を奪ったのは俺だ。
あいつの面倒はこれからも見る。文句は言わせねぇぞ」

どう対応すべきか正直まだ決まっていないが、まあ何とかなるだろうと楽観的に見る事にした。
衝撃はあったもののそれも何時かは直っていくのだろう。そんなものだ。

「今更反対はしない」
「そうか」
「まあ頑張って」
「あ?何だいきなり」

何て考えていると何故か肩を叩かれ。貴也をみると少し微笑んでいて、
こちらが理由を聞く前に早々と去っていった。普段はそんな事をしないのに。
何だか気味が悪い。寒気がしたらついでにトイレに行きたくなり行き先を変更。


「はあ…」

疲れていたはずなのになんとなく目が覚めてしまった春花。
猪田たちが来るまで部屋でジッとしていようかと思ったがもうここに来る事もないだろうし、
今なら人の気配もない。それならとちょっと冒険気分で部屋から出た。
とはいえやはり室内をうろつくのは怖い。庭に出てその片隅の花壇を見つめていた。

「そこはトイレじゃねえぞ」
「別に力んでたんじゃないです」
「そら悪かったな」

しゃがんでいたからだろうか。後ろからデリカシーのない声。
立ち上がりふり返るとやはり立っていたのは社長だった。

「この花壇もしかして」
「ああ、…今でもこまめに面倒みてる。野朗がやってるにしては綺麗だろ」

池や松や大きな岩が並ぶ厳かな庭にポツンと家庭的な空間。
聞かなくてもそんな気はしていたし、何となくビルの屋上にある庭に似ている。
貴也が言っていた。早朝花の世話をする彼女と遥の姿をよく見たと。
ここが彼らの思い出の場所。

「……」

何て所に来てしまったのだろう。そして彼は何てタイミングで来るのか。
もう一度ため息したくなるのを堪え視線を花壇から逸らす。

「なあ、これからなんだけど」
「皆さんにお礼を言ったらバイト先へ行ってちゃんと話をして、それから今後の事を決めます」
「そうか。…すまないな」
「もしかしたらまだ働かせてもらえるかもしれません」
「お前さんの好きにするといい、…俺は何も言わない」

また同じ過ちを繰り返している。
もう少し距離が近いと思っていたのにそれは自分の思いあがりで。
此方に視線を向けず庭を見ている春花を見つめながら軽いため息。
彼女が何処へ行こうとも、何をしようとも、自分には何の力もないのだ。

「……咲いてる沈丁花みたかったな」
「屋上のと一緒だ」
「違いますよ。ここのは、…特別」
「は?」
「ねえ、社長」
「何だ」

暫くは無言だった春花だが何を思ったのか。
視線は花壇のままでそっと尋ねる。声が小さい上に距離があって
少々聞き取り難いが何とか耳を澄ませその声を聞く。

「今でも瑞香さんを愛してますか」
「いきなりだな」
「……」
「あれは俺の一方的な感情であの人とは何も」
「答えてください」
「もう愛してないと言えば嘘になる。割り切れない所もある」

その答えを聞いてある程度予想していたものの
春花はギュっと服を掴み気持ちを落ち着かせゆっくりと息を吐く。
心臓がドキドキといやに早い。何より、気を抜いたら泣きそう。

「……そうですか」
「でも彼女はもう居ない。お前が居る」
「他に愛してる人が居るのに?」
「まあ、普通に考えたら嫌だよな。そんなのは」

勢いに乗せて告白なんてするんじゃなかった。遥は冷静に考えてつくづく思う。
自分の気持ちを整理したはずだったのに。口にしていることは真逆。
もしかしたら彼女はそんな部分を見透かしていたのかもしれない。何て今更。

「亡くなった人と戦い続けるなんて嫌です。自分で言うのも何ですけど、私は大したとりえも無いし。
見た目も普通で…なのに、相手は皆が褒める素敵な人。こんなの部が悪すぎます」
「そんな言い方しなくても」
「私は、私だけを愛してほしい。……私はこんなに…想ってるのに」
「……」
「そう思う事はいけないでしょうか。今の貴方に納得できないと思うのは勝手ですか」

搾り出すようにやっと言えた自分の素直な気持ち。一生言う事はないと思っていたのに。
彼女の作った花壇を見つめていたらついに口から飛び出た。その言葉は彼に届いたろうか。
まだ何の返答もないけれど。春花の心臓はさっきよりもさらに加速してドキドキしている。
このまま倒れて死ぬんじゃないかと思うくらい。痛いくらい。ついでに涙ぐんできた。
悲しいわけじゃない辛いわけじゃない、ただ感情が溢れて。

「普通じゃねえだろお前さんは」
「どうせ不幸を呼び込む不幸星人です」
「将来は田舎に店もって皆に菓子を食わせるんだろ」
「……雲行き怪しいですけど」
「なあ、答えてくれよ。俺は答えたぞ」
「何ですか」
「さっきの質問、もしお前だけを愛してるって言えばどうなってた?喜んだか?」
「今更遅いですよ。それに、そんなうそ臭い事言う人は好きじゃありません」

何とか気持ちを落ち着ける春花。だが。

「そこさえ何とかすれば問題なしってわけだな」
「…っ」

廊下に居たのに履物を持って来たらしい遥が後ろまで来ていて。
そっと抱きしめてきた。見えてなかったぶんいきなりで驚いた。
やっと気持ちが落ち着いてきたのにまた心臓がドクドクと高鳴る春花。

「行き成りはナンだし、交際からはじめるか」
「こ、交際?」
「そうだ。ガキ臭いがそういうのもたまにはな」
「ちょ、ちょっ社長」

意味の分からない展開に慌てて抱きしめる手を解こうとするが
思いのほか社長の抱きしめる手の力が強くて外れない。
結果無駄に手足をジタバタしているだけというむなしい結果に。

「何だよ」
「それ認めたら私たち普通に恋人同士なんじゃないですか」
「ああ、くそ。なんかそういうのケツが痒くなってくるな」
「そんなあっさり決めちゃうんですか?何かこう」

それっぽい会話とか。流れとか。もう少しあっていいはずじゃ。
春花の今までの人生で一気に交際まで駆け上がるなんて事がないから
そこの所はよく分からないけど。

「じゃあ書類でも書いて提出してやろうか?」
「書類って。……あの、…その」
「覚悟決めろ」
「……条件あります」
「条件?」
「セクハラ禁止。パワハラ禁止。シモネタ禁止。あと、清十郎さんって呼んでも怒らない」

抵抗するのはやめてそっと自分を抱きしめる遥の手を掴む。
昨日はちゃんと反応できなかったし気持ちにも踏ん切りが付かなかった。
けど今こうして彼に自分の気持ちを言ってしまったら。何故かストッパーは無かった。
その代わりぽろっと出てきた条件。他のはたぶん約束したって踏み倒されるだろうけど。
どうか最後だけは。交際するのなら、自分は他の人とは違うと思いたい。

「まあ、そうだな。…2人だけの時ならな」
「いいんですか?あ。地球上で2人とか捻くれたことじゃ」
「深読みしすぎだ」
「じゃ…じゃあ、…清十郎さん」
「何だ」
「呼んだだけです」
「そうか。次呼んだだけだったら身包み剥ぐからな」

了承は得たものの無闇に呼んだら後が怖そうだ。嬉しいような嬉しくないような。
とりあえずもういいでしょうと手を離してもらう。そろそろ皆起きだす頃だろうし。
最後にお互いの気持ちを確かめるかのように向かい合う。

「あの。教えてください、もう大丈夫なんでしょうか。まだ危険なら」
「とりあえずお前さんはもう大丈夫だ」

春花には気になる事がある。名も知らぬあの怖い人たちの事。
もうあの男の影に怯えなくていいのか。長井とも会わなくていいのか。
関係の無い春花は何も知らないほうがいいという判断なのか詳しい説明はない。
殺伐とした空気は流れていないから差し迫った危機は無いと思うけれど。

「私は…。じゃあ、清十郎さんは?幸さんやマリーさんは」
「さあな。連中の言ってる事が何処まで信頼できるか」
「そんな」

どうしてそんなあっさりと言えるのだろう。まだ命の危険があるというのに。
もしかしたら最悪の事態だって。もちろんそんな事あるはずない。あってはこまる。
不安げに見つめる春花だが、相手は特に表情を変えないで。

「まあいいじゃねえか、この世界に居る以上その覚悟は持ってねえと」
「やっぱり無し」
「は?」
「そんな人と交際なんかしたら心配で心臓幾つあってもたりないじゃないですか!」
「はっ、今更遅いんだよ。無しは無効だ」
「ひ、ひどい。詐欺じゃないですか。後だし詐欺!」
「何とでも言え。もうお前は俺のもんなんだよ」
「……いいですクーリングオフしてやりますから。幸さんに頼んで」
「このアマ」

いい歳をしてわいわいと庭で騒ぐ2人。
すっかり皆起きていてその様子をバッチリ見られて居る事に気づくのはもう少し後。
何だか知らないがいい雰囲気じゃないかと2人の関係にハラハラしていた者たちは安堵した。


「よかったですね若!」
「返品されようとしてるけどな」
「へ、へんぴん?」

遥はとりあえず身近な者に彼女との事を喋った。そしたらあっという間に家中に広まった。
お喋りな猪田に拳骨を喰らわせビルに帰る準備。そこへ笑顔で小田が見送りに来た。他にも何人か
見送りたいと笑顔で来たが気持ち悪いのと彼女を怖がらせないようにと断わった。

「兄さん」
「またか。俺を幾つだと思ってんだテメエらは」
「そう怒らないで。皆兄さんを慕ってるんだから」
「馬鹿にして影で笑ってるの間違いじゃねえのか」

自分の顔を見てはやたらニヤニヤする連中に苛立つ遥。

「少し複雑だけど。…僕はもう何も言わない」
「貴也」
「兄さんたちにはまた力を借りる事もあると思う。その時は」
「分かってる」

遥は適当に切り上げさっさと玄関を出て行った。他の3人は既に外へ出て車で待っている。
もう自分には関係のない場所だったのに。何もかも切り捨てたつもりだったのに。

「社長」
「何だ。ここで待ってたのか」

門へ続く道を歩いていたら春花。

「いえ、あの。…どうしようかと思って」
「何だよ。返品不可だって言ったろ」
「いえ、それじゃなくって。あの。…下着」
「下着がどうした」
「…姐さんにお借りしたままで来ちゃって」
「いいさ貰っとけ。婆の下着なんてダサいだろうが」

遥の顔を見るなりモジモジしだして。少し頬も赤い気がする。
そんな表情をする事は殆ど無い彼女。
てっきり出てくるのを待っていてくれたのかと思ったら違った。
まだ下着がどうとかゴニョゴニョ言っているが構わず一緒に外へ。

「夜にまたお邪魔してもいいでしょうか」
「もちろん。久しぶりに楽しい夕飯になりそうだわ。ね、若。幸ちゃん」

春花は一緒には行かず途中マンションで降ろしてもらい一端別れる。
これから着替えてバイト先へ行き馬宮に話をしなければならないから。
全部1人で話すのは大変。手伝おうかと猪田は言ってくれたけれど。
大丈夫ですと言って春花は礼をしてマンションへ入っていった。

「…大丈夫かあいつ」
「もうラブラブですね若」
「あ?…気持ち悪いんだよタコ」
「痛!後ろから殴らないでくださいよぅ」

そんな彼女を心配そうに見つめる遥。だがすぐに視線を戻し。
目の前にある巨大な男に拳骨を入れた。




「春花さん!よかった!」
「馬宮さ…じゃない、…翔さん」

1日とちょっとしか経過していないはずなのに酷く懐かしく感じるお店。
入るなり店番をしていた馬宮が叫び此方に駆け寄ってきた。
まだお客が居るのに。すぐに母親が出てきてすみませんと接客を代わる。
店内では迷惑だろうからと場所を公園に移し馬宮に事情を話す事に。

「俺、ほんと、…ごめん」
「いえ。悪いのは私なので」
「あの、気にしないでいいよ」
「ありがとうございます」

彼の言葉は何時も優しい。涙がでそうなくらい。

「春花さんが…ふ、…風俗嬢でも大丈夫だから!」
「ふ?!」

でもちょっと勘違いしてるっぽい。

「わかってる。元、なんだよね。この辺はちょっと入ったらそういう店もあるし。
歓楽街なんかもあるし。田舎から出てきてすぐだから仕事もそうすぐには見つからないし」
「あ、あの翔さん?」
「辛い思いしてきたんだよね。でももう大丈夫だ!お、俺が」
「風俗嬢じゃありません…元、でも」
「え?」


つづく


2009/12/21

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